阿倍野区整体院 大阪

O脚・X脚・美脚・小顔・輪郭矯正専門整体院 大阪阿倍野昭和町

略 歴


岡田俊一(おかだ しゅんいち)
1956年 大阪生まれ。O型。
1979年 大阪芸術大学卒業。
1983年 日本総合健康センター入社。
東洋医学、整体指圧、食養を学ぶ。
1988年 独立。
整体・カウンセリング・ボディワークをベースにした独自のメソッドで、総合健康指導所「健康塾」を開設。

健康塾SBバランス整体院院長。
健康塾真愈整体学院院長
真愈整体の会 主宰
NPO法人日本ホリスティック医学協会理事 生活習慣病予防指導士スクーリング講師、
生活習慣病予防士通学コース講師
ホリスティックヘルス塾インストラクター
(社)経営労働協会 認定 産業カウンセラー
(財)全日本空手道連盟 公認三段

整体院だけでなく、院外でも多くの講演をしています。

◆一列目
左は「NTTの企業研修」(場所:越前海岸)
中は「2Wayバランスワーク」(場所:西宮アートガレージ)

右は「気ワーク」(場所:阿倍野スポーツセンター)

◆二列目
左は「NTTの企業研修」(場所:湯の山温泉)
中は「豊中老人大学」(場所:豊中市の公民館)
右は「2Wayバランスワーク」(場所:西宮アートガレージ)

◆3列目
左は「健康講座」(場所:阿倍野区丸山会館)
中は「気・イメージ・身体」(場所:神戸YWCA)
右は「NTTの企業研修」(場所:越前海岸)

◆4列目
左は「気ワーク」(場所:阿倍野スポーツセンター)
中は「NTTの企業研修」(場所:湯の山温泉)
右は「2Wayバランスワーク」(場所:西宮アートガレージ)

◆5列目
左は「気ワーク」(場所:阿倍野スポーツセンター)
中は「2Wayバランスワーク」(場所:西宮アートガレージ)
右は「気・イメージ・身体」(場所:東住吉区の公民館)



「場の共鳴現象」

2008.10.26に関西医科大学で講演した「ホリスタティック医学概論セミナー」演題『ホリスティック医療と経営』の中の「場の共鳴現象」


「セラピーの3つの階層」

2008.10.26に関西医科大学で 講演した「ホリスタティック医学概論セミナー」演題『ホリスティ ック医療と経営』の中の「セラピーの3つの階層」の部分のダイジェスト。




2017.11.25に統合医療学会と日本ホリスティック医学協会初の合同学会「患者中心の医療 Patient-Based Medecine」(東京有明医療大学)のホリスティック医学協会のプログラムに参加しました。



2Way バランスワークはこうして生まれた(プロフィールを兼ねて)

 

私が初めて『気功』という言葉を目にしたのが20年以上も前の高校生の時でした。松田隆智という人の「少林拳入門」で内功を養うという欄に載っていました。その頃私は空手を始めたばかりで、テレビで「空手バカ一代」というアニメが流行っていました。

その中の主人公が世界を股にかけ各国の格闘技のチャンピンを打ち負かしていたが、唯一負けたのが香港の陳老師の使う「陳式太極拳」ということになっていました。その言葉が頭に残り、中国の太極拳はすごいとイメージで、本を探していたときに巡り会ったのが前述の本でした。

現在と違って昔は太極拳を教えてくれる道場もなく(見つけだす手段がなかった)ぽつぽつ出版される中国武術の本を買い漁り、なんとか空手に応用できなすかなぁと一人研究したり、後輩をつかまえては、円の動きがどうのこうのと行っていました。実際太極拳を習い始めたのが大学を出て社会人になってしばらく経った、80年ぐらいだと思います。

空手をやっていたので足腰には自信があったのでうまくやれると自惚れていました。太極拳は武術ですので、套路(演武の型)をするとき相手をイメージしながらやります。空手をやっていたのでそんなところは、うまくやれていたと思います。ただいつも決まって注意されるのが、力を抜くということでした。いろいろな本を読んでいたので頭では理解できているのですが、実際“力を抜く”ということがなかなかできませんでした。そんな時、一度太極拳からはなれて考えてみようと思い、違った方向から入ったのが「野口体操」と「野口整体」です。

これがきっかけで「身体の動き」に興味を持ち、それからいろいろな運動系の研究をしました。その後、体験した中で参考になったのは「橋本操体」と「沖ヨガ」です、この中で直接創始者とお会いできたのは沖正弘導師だけでした。沖先生の指導法は印象的で、現在の私の活動の基盤となっているものです。以上の様なことがきっかけで、13年前に現在の職業に転職することになりました。

私が個人でワークショップを始めたのが、平成3年の6月で、生協の健康教室として3回のシリーズでした。早いものでそれから5年が経ちました。この間、多い年は年間50回ぐらいのワークを行なってきましたので、およそ週に一度は人の前に立ち何かしゃべっています。この間に出会ったのが、ホリスティック医学とトランスパーソナル心理学です。特にトランスパーソナル心理学の黒木賢一先生の講座のレジメに書かれていた『セラピーの場(空間)がより治癒的に動くのは、セラピスト自身が癒されているからだ』という言葉に大いに触発され、現在にいたっています。

「心とからだの癒しの研究会」を始め、私の行なうセミナーは、ホリスティック医学ベースに私自身が理解している方法で、一般の人に解かりやすく啓蒙するということをテーマにしています。「心とからだの癒しの研究会」やその他のセミナーに参加される方々が、少しづづ癒されていくという体験を重ねて、その方々の回りへ『癒しの輪』が広がっていけばと思っています。(1996.6.1)


 

 

 

「裸足の医者」を原点として

 

 「治らん患者が来ない」これは今から20年前に聞いた私の師匠の言葉だ。未だに心に引っかかる言葉である。  学生時代からずっと武道をしていた。中学のときは柔道。高校からは空手をしている。体が小さいので柔道はきつかった。高校生になったらウェイト制の有るレスレングをするつもりだったが、進学した高校にはレスリング部が無かった。

ちょうどその時、世は「アチョー」ブーム?であった。ブルース・リーが一世を風靡していた。しかし当時カンフーの道場は皆無に等しかった。似たものということで空手の道場の門を叩いた。

何をするにも理論が必要な性格なので、本を読み始めた。必殺技とか秘密の経穴という言葉の響きに惹かれて・・・。そんな時中国の医療を紹介している本と出合い、その本の中で見つけた「裸足の医者」という医療システムにとても興味を覚えた。

これは、1960年代毛沢東の時代に、中国は国土も広く人口も多いので、それぞれの村に少し医療に詳しい人がまず治療に当たり、それでダメなら中央の病院へ紹介するというシステムである。ちょっとうろ覚えであるが、だいたいこんな感じだったと思う。

中国では上工(名医)は未病を治すと言われている。養生(未病医学)の方が病気になってから治すより、大事であるという考えが東洋医学にはある。そのあたりの考えが私の根源にはあるようだ。

大学時代はずっと空手をしていたが、自分で本を見ながらカンフーの研究にも励んだ。大学を卒業し空手と併行して、念願であった陳式太極拳を習い始めた。中国にも研修に行った。何しろ凝り性なもので。

同時に様々な健康法、治療法の研究も始めた。まず実践したのが玄米菜食。何事も徹底していた、この時、一週間の断食も経験した。

この時、特に興味があったのが、野口整体、野口体操、橋本操体、沖ヨガである。沖ヨガは実際合宿に参加して沖導師と直接お話をした。気功のセミナーにも参加した。その時考えていたのが、病気別に気功法の指導をしたいということだ。

しかし治療をするには、鍼灸師とか指圧師の免許がいると思っていた。当時は芸大を出てグラフィックデザインの仕事をしていたので、学校に行くにもデザイナーのままでは時間が取れないので、やりたい仕事を目指して会社を止め、昼間働いて夜学へ行くつもりだった。ちょうどその頃結婚をした。なんと結婚退職である。

 

「治らん患者が来ない」

 

 昼間は大学の入試教材の営業をし、指圧学校へ入学する準備をしていた。しかし当時で65万円もした教材などなかな売れるものではい。二ヶ月目からは歩合制になるので給料は手取り数万円であった。そんな時である、「指圧師見習い募集」の広告を見つけたのは。

今から二十年前私は日本総合健康センターに入社した。指圧師見習いとして。そこはオーナーが自分自身の成人病を、東洋医学で治されてその素晴らしさに感 動し、自分の会社に治療部門を作ってしまったのである。そのオープンのスタッフとして私も入社した。入社試験はなんと体重計を「拇指で押す」とものであっ た。その難関?を突破したスタッフ7名が採用された。私以外はみんな鍼灸師であった。

10月に入社して翌年の1月15日のオープンを目指し、スタッフの手技を合わせるために当時「ミルク断食」で有名な、K先生から整体指圧を習った。その時「千島学説」という西洋医学から見たら異端な理論とも出会った。

程好くオープンを迎え、指圧を始めて三ヶ月目の私も、20余年のキャリアの先生も皆、同じ治療料金をもらっていた。今考えると冷や汗ものである。

入社の時「指圧学校に行かせてやる」という条件があった。最終的には身体均整法のスクーリング科に行かせてもらった。

企画会社のデザイナーだったので、文章を書くのは苦痛でない。そこのオーナーは元新聞記者ということでスタッフに事ある毎に、企画やレポートを求めた。 他のスタッフは文章の苦手な人が多かったが、そんな中で企画のできる私は重宝され可愛がってもらった。一年ほどして、私はマネージャに昇格して、センター の切り盛りをするようになった。

センターではスタッフ以外に、名人といわれていたM先生がいた。当時で70歳半ばであった。毎朝一時間M先生の精力的なレクチャーが有った。これは現在でも大いに役に立っている。

" この名人先生の言葉で今でも心に残っている言葉がある。それは私が先生にこんな質問をした時にお答えいただいた言葉だ。「先生、名人の秘訣はなんです か?」とてもストレートな質問である。老師は涼しい顔で「名人とは治らん患者が来ないことじゃ」と言い切った。



一瞬私は唖然として心の中で「この人は何を言ってるんだろうか」と思った。「治らん患者を診ない」ならなんとなく解かるが。「このじいちゃんいったいど ういうつもりなんだ」がその時の率直な感想である。しかし妙に心に残るフレーズであった。これが今の治療の原点になってっているとは、その時はぜんぜん思 わなかった。

結局そのセンターは色々あって、3年で閉所になった。そのセンターを居抜きという形で次に引き継いだのが、K療術学院であった、ここにはセンターで働いている時から私が、そこの技術を習いにいくと言う形で関わり合いが有った。

 

新たな出発

 

 新しい場所での仕事は大変だった。今までのセンターではプレーイングマネージャーとして、治療と管理をしていた。K学院ではまだ、そこの手技を習っている途中だったので、学院の付属施術院では、予備治療しかさせてもらえなかった。

昨日までは責任者として治療に当たっていた者が、今日からは見習いに逆戻りである。居抜きだから患者さんは以前の方も来られる。昨日までは先生として全 身治療をおこなっていたが、今日からは見習いである。私自身は我慢をすればいいが、センターの患者さんがなんと感じるか。これが一番きつかった。

合わせてK学院では、初級の人に指導もしていた。この時の学院の責任者がW氏という若干25歳の先輩であった。彼は住み込みの内弟子で、ここのK学院の 手技の基礎は彼に習った。この時はテキストも何もなく口述で指導を受け、家に帰って自分用のテキストを書き溜めた。K学院も創成期で理論部門が弱かった。 暫くして彼と一緒にこの学院のインストラクターとなった時に、指導システムを作った。

ここでは毎月上級の研究会が行われていて、二ヶ月続けて「卵巣疾患の治療法」というテーマでレクチャーがあった。別々の講師だったが、二人ともまったく 違うポイントを使って治療していた。これは東洋医学系ではよくあることである。二人とも地方の名人ということであった。この時思ったのは「西洋医学の解剖 学的には卵巣の位置は同じなのに、何故同じ疾患に対して、違うツボ(手法)で治療でき、かつ治るのだろう」ということである。この現象が「自然治癒力」と いう事に興味を持つきっかけとなった。

センターの時のM先生の言葉や、この二人の治療家を実際目のあたりにして、「いったい治るという事はどういうことなんだろう」という疑問が湧き上がって 来た。技術ではなくその人の持っている力「自然治癒力」で、治っていくのだとおぼろげながらにつかめてきた。

ここの療術学院の、T院長とは考え方が合わないでよく衝突した。しかし現在おこなっているカウンセリングの基礎は、ここで実践を通して身に付いた。それに何といっても今の整体のベースの技術を、習ったことにはとても感謝をしている。

院長も「心が体に及ぼす影響」の大切さは常々おっしゃっていた。「その考えを実践に生かします」と言ってK学院を退職し、独立することになった。時を同 じくしてW氏も独立。彼とはそれぞれ違う道を歩んだが、後に再会し一緒に仕事をするとは、その時は夢にも思わなかった。

CI計画発動

 

 最初のセンターでは責任者としてやっていたので、同世代の会社員ぐらいの給料はもらっていた。しかしK学院で勤めたときは、通いの内弟子というような形 だったので、給料は五分の一になってしまった。それが一年間続く、最終辞める時でもセンターの半分ぐらいであった。それでもまぁ、デザイナー時代よりはま しであった。

独立当初は出張施術から始めた。センター時代の患者さんが私についていたので、最初から月平均50~60人ペースで施術ができた。センターにいた頃ぐらいの給料は稼げるようになった。

「開業するなら駅の近く」とずっと考えていたので、出張の合間にいろいろ物件を探した。がやっぱり駅前の店舗を借りるとなると、資金面で心許ない。K学 院の時代給料が少なかったので、毎月持ち出しで、貯金をほとんど使い果たしていた。

出張も結構面白かった。車に乗らないので電車か自転車、原付での移動となった。隣県への出張では出張先で、部屋を開放していただいて、そこで5~6人集 まっていただき、毎月定期的に施術をするという方法を取っていた。そんな出張先を何軒か持っていた。この方法は大変効率がよかった。

企画会社にいたので当然、CI計画を展開するべきだということで、開業に当たってまずコンセプトを決めた。コンセプトは「感動は心の扉をひらく」である。

次に大事なのは屋号である。短く、インパクトが有り,覚えやすく、ポジィティブな名前。当時、病院は「3時間待って3分診療」といわれていた。また、病 院の待合室の暗い雰囲気で、「病院に行くと病人になってしまう」ということをよく聞く。それで「健康」を使った名前を付けようとずっと考えていた。さらに 健康に関することを総合的に、指導していきたいので、「健康+塾」で健康塾に決定するまでに、そう時間はかからなかった。

CI計画であるから、当然ロゴマークから、コンセプト、テーマカラーまで決めた。合わせて「MOVING」という機関紙を発行し、これを出張先で配った。

しかし出張という方法は、相手先の家で施術をするので、食事の指導やカウンセリングなどしにくい。というより「押してくれたらいいよ」という形になってしう。総合的な健康指導をする目的で独立したのに、なかなか思うように進まない。
幸い整体という職業は身体一つでできる。仕入れがない分経費が少ない。出張という方法は無店舗営業なので、経費といっても交通費ぐらいなので少しずつ貯金ができた。

昭和63年6月20日から出張施術を始めて、翌年平成元年5月17日についに事務所を借りてオープンした。地下鉄駅前のビルで開業したかったが、当時は その家賃が払える見込みが立たなかった。駅から100mぐらいの、6畳のワンルームマンションからスタートした。

 

トータルセラピーに開眼

 

 小さいワンルームで何ができるか?そのことについてずっと考えていた。何か特徴をださなくては、いろいろ考えた結果行き着いたのが、人間の「五感」全てにアプローチする方法だった。

心と体にやさしく、自分の体の内から発せられるメッセージに耳を傾ける。そんな整体院を目指した。その方法を「マインド・テラピー」と名づけた。

触覚これは整体でOK。それまで「療術」という言い方をしていたが、この呼び方は好きでないので「整体」と呼ぶことにした。特に今後やっていきたいこと に対して、療術では「治す」という側面が強く出る感じがした。整体というのは「体を整える」と書く、こちらの方が私のやりたいことに近いと思ったので整体 に統一した。

視覚これはマインドアートという名前をつけた絵を描いた。あとは部屋のカラーの統一と観葉植物を配置した。聴覚はヒーリングの音楽をかけた。有線放送も 引いたがその当時はヒーリングのチャンネルがまだモノラルだった。あとは患者さんに、自分の好きなテープを持って来てもらい施術中にかけた。

味覚と臭覚はちょっと考え、そしてハーブに着目した。今でこそアロマテラピーは有名だが、その時代はハーブというもの自体が認知されていなかった。いろ いろ文献を当たり、行き着いたのがフランスのモーリス・メッセゲという植物療法家のハーブであった。このハーブを取り入れるに当たり100時間近くの講習 を受けた。これで五感へのアプローチを自分なりに完成させた。

この講習会で出合った人に森さんという鍼灸師がいた。治療家は彼女と僕の二人で、後はエステシャンやハーブ店の方が多かった。当時、森さんは日本ホリス ティック医学協会の関西支部の事務局長で、この時初めてホリスティック医学という言葉を聞いた。話をいろいろ聞いてみると、私の目指している医療とよく似 ていた。

彼女との縁で日本ホリスティック医学協会に入会し、'91年1月より関西支部のスタッフとして活動を始めた。そして翌2月よりフォーラムの司会を約6年 間させてもらった。この時に出逢った講師で懇意にしていただいたのが、トランスパーソナル心理学の黒木先生だ。私が体から心へのアプローチを考えている 時、黒木先生は心から体へのアプローチを考えていた。黒木先生の講義へ出た帰りよくそのことについて話をさせていただいた。

バブル絶頂の時に・・・。

 

 整体院としての活動と同時に、ホリステイックな健康観の啓蒙活動として、会場を借りて「心・体・食」の調和に基づく講座を始めた。合わせて整体学院も開校し後進の指導へと動き始めた。

2年目ぐらいになると、整体院の方にも徐々に患者さんが増え、出張と半々ぐらいで何とか目鼻が立ってきた。ただこの時は、どうしても「体」の部分に重き を置く施術が中心となり、私のやりたいホリスティックな医療とは少しかけ離れていた。

これではいけないと、やりたかった形へ方向転換すると、指導の部分が多くなり、だんだん従来の患者さんが離れていった。今でこそ、その人に合わせた健康 指導ができるようになったが、当時は全然内容が伴わない、頭でっかちの指導であったと思う。この開業2、3年目が一番きつく、アルバイトをしようかと履歴 書まで書いた。毎月後5万円が足りなかった。平成2、3年世は正にバブル経済絶頂の時であったが・・・。  しかし、この時も空手の道場通いと黒木先生の講座には必ず通った。年中無休で営業していたので、週に一回の空手の練習が自分のペースメーカーだった。

黒木先生がよく「どうですか?」と声をかけてくれ、そんな時私はいつもこう答えていた。「10年先のビジョンは明確に有るんですが、足元が霧に包まれて よく見えません。」  やりたい事はしっかりあるが、目の前の現実につまづいてる感じである。この後、黒木先生のコーディネートで「役に立つ東洋医学・三つの視点」という講座 を、漢方専門の内科医と鍼灸師と私との3人で、朝日カルチャーセンターで持たしていただいた。面白いアプローチで好評の講座だった。

この頃からようやく仕事も軌道に乗り、健康講座もいろいろなところから声がかかり、社会教育関係や企業研修等の講師もするようになった。

ある日、K学院にいた若木氏から突然電話があった。私も以前から面識のある、腸内細菌理論で難病の方を健康に導いている、井草氏と整体学院を立ち上げる ので、協力してほしいとのことであった。個人でのセミナー活動に限界を感じていたところなので、渡りに船ですぐに参画した。このメンバーが今の総合整体学 院の学院長井草氏と若木氏だった。

若木氏と私で授業の内容を作った。若木氏との話し合いは3つの決め事だけだった。「自然治癒力(自分の力で治る)」「移動の時人をまたがない、足、肘、 膝を使わない」「施術をしてあげるではなく、施術をさせていただく」以上を基に、学院のコンセプトを3人でしっかり話し合い、大まかな骨子を私が作り上げ た。若木氏とは2年間同じ釜の飯を食べてきた仲である。性格的にはぜんぜん違うが、こと整体に関しては、思いは同じで「ツー」と言えば「カー」だった。

 

  自分の整体院、セミナーそして総合整体学院、私の3本柱が出来上がった。

 

明日に向かって

 

 今の西洋医学ではデーター至上主義になっている。「触診をするよりも検査数値を信頼する。」とよく年配のドクターは嘆く。これも時代のすう勢で仕方ない と思う。特に日本人は「科学的」というのが好きなようだ。今後の医学会がどうなるのかは、未知数である。ただ物を伝えていくのに、基準や数値がはっきりし ているのが便利なのは、医学界も学校教育も一緒だと思う。

手当ての原点が「痛むところに手を当てる」というのは、誰しも認めるところだろう。整体をする時この「手」の感覚がとても大切である。手から相手の情報 をすべて感じる作業が必要となってくる。「硬い」とか「熱を持っている」「腫れている」など表に現れた、状態を把握することは勿論だが、「目に見えない微 妙な変化をどう感じるか」という世界になる。もう職人の世界である。

職業やスポーツにより要求されるスキルは違う。しかし「技術は足し算。心は掛け算」である。技術は一つ一つ積み重ねなければならない。歩みの速い遅いは有るが、一つ一つ積み重ねていける。ちょっとサボっても足踏みか、引き算である。

しかし「心の力」は掛け算のように大きく飛躍する。だけど間違った使い方をすると、マイナスの掛け算は絶対数にマイナスが付く。

整体師の「心の力」はクライアントを思う心、優しさで育むことができる。もちろん他に「感動すること」や「瞑想する」あるいは「すばらしい人と出会う」等でも養うこともできる。

「今日は健康塾に予約をしている」と思った瞬間、クライアントの「気」が私の許にやってくる。「気が動く」そんなセッションがしたい。時間や空間を越え るのだ。それを健康塾では「気の整体」と呼ぶ。その時点で半分は整体が済んでいる。あとは来て頂いた時に、仕上げである。

現在の保健医療の枠組みの中では、整体はなかなか日の目を見ない。整体師が公的な資格にとなることをみんな夢見ている。これの一つの目的が保健医療に参 入できるという可能性だ。しかし現実問題は難しい、既存の保険医療ですら制限されてきたり、疾病によっては医療費の上限が決まるという流れになってる。早 かれ遅かれそうなるだろう。今の医療保険システムはパンク寸前なのだから。

では、これからの整体師に何が求められるか。それは形あるものとしては「知識」と「技術」である。目に見えないものとしては「心」「優しさ」だろう。

実費で施術をしていく上において一番必要なことは、いろいろな意味での実力である。よく言われることだが「上手な先生」と「流行る先生」は違うという。 患者さんの心をつかむには技術はもちろんだが、やっぱりトータルとしての「人間力」をつける必要があると思う。私はそのところに一番力を入れて学院では講 義をしている。

「指導というのは自分の知っている知識を相手に伝えることではなく、相手に理解できる言葉でかつ、実行できるように噛み砕いて伝えることだ。そうでなくてはそれは整体師の自己満足だ」と叫んでいる。  この仕事を始めて20年、歩んできた道に後悔はない。クライアントの「心の訴え」を感じ取れる、ピュアな心を持った整体師を目指して、日々感謝の気持ちで施術をさせてもらっている。 (2003.10.1)

 




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O脚口コミ

O脚大阪の口コミ


「プリティ」4月号に
取材記事が載っています。


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